フォーカスイン•フォーカスアウト

7、8年前に購入した本「密息で身体が変わる」を久々に部分的に読み返してみた。

すると今回気になった箇所は、「呼吸法」のことではなく、

な、なんと「日本文化と西洋文化のアートの見せ方の違い」

まずは、イングリッシュガーデンの見せ方は、人間がそこを歩いて時間軸に沿って物語が展開するのですが、日本庭園は、主に座敷に座って眺めて、一見のっぺりした平面の中に自分で立体感をうみだし、さらに時間を生んでいく。そこでは時間と空間が交差していく。

(ここから以下本文抜粋)

東福寺について、ロラン•バルトは「表徴の帝国」の中でこのように言ってます。

「どんな花もない、どんな足跡もない。

人間はどこにいるのか?

岩石の搬入のなかに 帚の掃き目のなかに 

つまり表現体の動きのなかに、いる」

表現体の働きーーーーバルトは、

この庭がフォーカスイン/アウトの道具であることが分かっていたように思えます。


そして、著者は日本人が遠近法をなぜ発明しなかったか?の推測をしている。

文を要約してみると

「それはやはり私たち日本人のものの見方に理由があったという。遠近法を使っていない日本画は平面的にも関わらず、奥深さが無限であると言う。遠近法でつくった空間の奥深さはどれほど深くてもその遠近法によって規定されている以上、有限なもの。遠近法というのは、近くにあるものが遠くのものに比して相対的に大きく見えるーその絵の中の主従を決めるものと考える事ができる。しかし、日本画のように部分と全体が拮抗していて自在にフォーカスイン/フォーカスアウト出来て、主従を決めない方がより自由度が増したのではないか。」ということらしい。  


多分、昔の人たちはそのことを感覚で知っていたのだろう。日本画だけなく、アボリジニたちの絵や古代の壁画にしても平面的であるが宇宙的な深遠さも感じる。


つまり何が言いたかったというと、自由な焦点(フォーカスイン&アウト)の合わせ方が日本の伝統アートの中にある。奥行きとは人それぞれが自由に観て感じるもの。そこで私たちの能動的な感覚が生まれて来る。

また西洋人がトータル的な美に対して、日本人はフォーカスインして全体の中の部分的(ディテール)に拘る。視線の巡らせ方が違うようだ。興味深い。


ヌース的に言うならば、日本人は昔から奥行きの中で他者の視線から見た世界ではなく、主観的にモノを観てそこで持続時間なる世界観を感じていたのだろう。つまり、自由にフォーカスイン/フォーカスアウトした上で奥行きを想像して、モノと精神の二つをそこで繋げていたのではないだろうか。日本の伝統アートは器量も度量もある感じがする。



Rainbow Serenity

❤️カナダ西海岸からお便り❤️ Serenity(セレニティ)とは 晴朗 •(こころの)平静 • うららかさ ハンドルネームは、虹夢(えむ) ”カタカムナ 言霊カード”と”コーチング”を合わせて、 夢のクリエーションをサポートしているセッションをしています❤️ 🌈2019年5月1日HP作成につきブログもこちらにお引越しましたhttps://katakamuna77.amebaownd.com

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